セブ島通信 Vol.160 2017年09月号へ戻る

2017年セブ戦没者慰霊祭 

蝶谷正明

夜来の雨も上がり、薄曇りながらやや蒸し暑い8月15日の午前。 セブ観音の前にはおよそ130名の人々が集いました。 比日両国歌に続き、一分間の黙祷、鶴岡領事事務所長の追悼の辞、櫻井日本人会長挨拶と続きました。白菊と焼香の煙が130人の一人ひとりの手からフィリピン、日本、アメリカの戦没者の御霊に手向けられました。 鶴岡所長は、戦火の中でフィリピン人110万、日本人50余万がフィリピンで命を失ったことに言及され、櫻井会長は「私は二人の子の母親として、絶対に彼らを戦場に送らない。」との血の出る叫び、浅見商工会副会頭は戦時中セブにセメント製造のために赴任していた先輩10名は一人として故国の土を踏むことはなかったと紹介、万斛の思いを込めて献杯の音頭を発声。 株式会社セナプロケミカルの西川さんからはセブ観音建立の由来のご説明、 石田元日本人会会長(セブ・レイテ慰霊奉賛会会長)からは観音像の眼下、現在のITパークとウオーターフロントホテルの敷地にあった日本海軍ラホグ飛行場から神風特別攻撃隊の一番機が飛び立ったとのお話をパイロットとしての目線を含め懇切丁寧に説明されました。 今回の慰霊祭に於いて特筆すべきは130名に及ぶ過去最高の参列者数ばかりではなく、30名を超すセブで研修中の日本人高校生や大学生が、この会にふさわしい身なりを整え、諸氏の言葉に神妙に耳を傾けていたこと、戦中、戦後と辛酸の限りに耐えてこられたセブ日系人会のSiega会長とオオナリ副会長が初めて参列されたことではないでしょうか。若者にとって戦争は今や曾祖父母の時代の歴史です。書籍やネットでの無機質な情報ではなく、まさに我々が今、踏みしめているこの大地でフィリピン、日本、アメリカの人々が血を流し、憎しみ合い、そして命を家族を財産を失ったという紛れも無い事実を実際に肌身で感じていたと思います。セブにも戦前、日系人コミュニテイ―があり、300人余りの邦人が在住、日本人学校があり、市内の目抜き通りに立派を店を構えていました。しかし、それも戦争によって瓦解、筆舌に尽くしがたい過酷な環境下で生き抜いてこられた日系人の皆さんを我々は忘れてはなりません。 このセブで起きた海軍乙事件も、我々日本人の記憶に残すべきだと思います。 昭和19年3月、有力な米海軍機動部隊の攻撃を避けるべく、パラオからダバオに退避中の連合艦隊参謀長座乗の飛行艇がセブ沖に不時着水し、ゲリラの捕虜となった事件です。しかも、次期作戦に関する最重要機密と暗号書の入った鞄を奪われ、米軍の手に渡っています。結果的に彼らは日本軍に救出され、鞄も戻ってきたのですが、「生きて虜囚の辱め受けず」と下には強要していた者がなんということでしょう。事件は不問に付され、彼らには一切のお咎めもなく、この後も要職を歴任しています。次期作戦もなんら変更されることはありませんでした。縁あってセブに住む我々はこのような現実も忘れてはならないのではないでしょうか。 二度とこの地に戦火が及ばぬことを祈ってやみません。

Thumb dsc 0134

Thumb dsc 0142

セブ島通信 Vol.160 2017年09月号へ戻る