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第7回 レイテ島慰霊

日本人会 安藤尚子

第7回 レイテ島慰霊 レイテ島は、大戦当時の人口約100万人、四国の半分程の大きさの島です。島の中央には標高1400mほどの脊梁山脈が連なり、マゼランが最初にフィリピンに姿を現したのがレイテ湾でした。 1944年10月20日午前10時、アメリカ軍は艦砲射撃支援のもとにレイテ島に上陸を開始します。 レイテ島の戦いで、この島は大東亜戦争最大の決戦場となり、日本軍将兵の戦死者が最も多い流血の島・殺戮の島となりました。 今年もこの日に合わせ、セブ・レイテ慰霊奉賛会 石田武禅氏と12人が第7回レイテ巡霊に同行しました。 当初、米統合幕僚本部は日本軍との決戦をフィリピンではなく一気に台湾、日本本土攻略を含む計画をしていました。 しかし、米陸軍ダグラス・マッカーサーが強硬に反対します。1942年第一次フィリピン戦で日本軍に追われオーストラリアに逃亡したマッカーサーにとって、その屈辱を晴らす為にはフィリピンで勝利者となる必要がありました。 また、マッカーサーの父のアーサー・マッカーサー・Jrは、米比戦争に義勇軍師団長として参加、1898年のマニラ戦争で少将に昇進します。米比戦争では初代フィリピン大統領エミリオ・アギナルドを生け捕りにし、サマール島・レイテ島の島民の皆殺しを命じ、20万人から150万人のフィリピン人が犠牲となりました。 ちなみに、現在のロドリゴ・ドゥテルテ大統領は虐殺された島民の末裔にあたります。 後にアーサー・マッカーサー・Jrはフィリピン駐留米軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となりました。その関係で、息子のマッカーサー自身フィリピン財閥とも深く結びつき、フィリピン経済界の一人となっていたため、マッカーサーのフィリピンへの執着が伺い知れます。 彼は、フィリピン人への道義的理由を掲げ�「アメリカに忠実なフィリピン人が、日本軍に捕らえられている。フィリピンを解放する道義的責任と、アメリカの威信がかかっている」と主張。マッカーサーはルーズベルトとハワイで会談し、マッカーサーが次の大統領選挙に出ない代わりに、再選を狙うルーズベルトがマッカーサーのフィリピン奪回案に賛成すると言う取引がされたと言われています。 当初、米軍がフィリピン戦で上陸を予定していたのはミンダナオ島であり、日本軍もここを予想していました。 しかし、レイテ島には日本軍の建設した飛行場が5つあり、また日本軍の守備が手薄なことが判明。米軍はこれを占領しルソン島攻略の基地にしたいと考え、時期も12月から10月に早められ、レイテ島に変更となりました。 フィリピン奪回そのものが、直前に決定されたものでした。 戦火が広がると、日本軍は陸上・海上で米軍に敗退し消耗した軍事力を補強する為に、将兵が次々と投入していきました。レイテ島に投入された兵力は、最終的には84.000人に達します。そのうち8万人の将兵が命を落としたのですから、レイテ戦がいかに過酷であったかが窺えます。 1944年10月20日、700隻の米艦艇と20万人の米兵がレイテ島に押し寄せます。 上陸地点のパロには「マッカーサーランディングパーク」あり、毎年盛大な記念式典が開催されています。そこには、上陸してくるマッカーサーを先頭に、亡命政権の大統領オスメニア、閣僚のカルロス・ロムロの像があります。 北方30KMにあるタクロバン市はレイテ島の州都です。 米軍に占領され日本軍は夜間の斬り込み攻撃を繰返した町です。 日本陸軍司令部と一緒にここに置かれていた守備隊が第16師団(垣兵団)2万人でした。この師団は京都を母体とし、後に99パーセントがレイテ島で戦死しました。 国際合同記念碑公園に「京都垣兵団建立」慰霊碑があります。 主にレイテ島に追加投入されたのが第1師団でした。これは歩兵第1連隊(東京)、歩兵第49連隊(甲府)、歩兵第57連隊(佐倉)を中核とし、満州に配置されていた部隊をレイテ決戦のために転用しました。 昭和19年11月1日、第1師団 片岡師団長以下13.000名が2回に分けてオルモックに上陸します。 第1師団の輸送船4隻は、奇跡的に上陸できましたが、11月5日から第26師団(名古屋)がオルモックに上陸したときは、1万の兵が上陸できただけで、武器食料の殆どは輸送船とともに沈められてしまいました。 その後、台湾からの第68旅団、セブ島から第102師団、ミンダナオから第30師団、ルソン島から第8師団が増援され兵力は8万人を数えていましたが、物資の陸揚げは殆ど出来ない状況でした。 そして、上陸した第1師団はオルモックを北上。与えられた任務は、レイテ島北部カリガラ平野に進出し、米軍を駆逐するというものでした。 対する米軍の任務は、オルモックの日本軍の拠点を攻略し、日本軍を無力化するというものでした。それ故、日米両方ともここは互いに譲れない決戦場だったのです。 第1師団が目指したカリガラ平野はすでに米軍の制圧下にあり、協力すべき第16師団は米軍に追われて山中に退却していました。そんな情勢下で第1師団は、もう少しでカリガラ平野に至る手前のリモン峠で米軍と激戦を交える事となります。リモン峠での戦いはレイテ戦最大の戦いとなりました。 リモン峠の山頂には「歩兵第57連隊」慰霊碑があります。�第1師団の先頭は、歩兵第57連隊でした。西南戦争も戦った由緒ある連隊です。 リモン峠の戦いにおいて歩兵第57連隊は、圧倒的に優勢な米軍の攻撃に、闘志と白兵戦闘の技術を生かし、支えられるはずのない北方戦線を10日、錯綜した東方山嶺を30日以上守り抜きました。 12月21日に転進命令が出た時、歩兵第57連隊の兵は2.500名のうち91名しか生存していませんでした。 リモンの集落を抜けて、南峠に差し掛かる前にあるリモン川は、兵士の流れ出る血で赤く染まった為、血の川とも呼ばれています。 米軍のヴァーベック大佐は日本軍との戦いの模様を、情報参謀部への報告書の中で記しています。その内容はリモン峠における日米両軍の戦いがいかにすさまじいものであったか、また歩兵第57連隊の戦いぶりがいかに勇敢なものであったが伺い知れます。 「敵と交戦した者は、その見事な戦闘ぶりによって感銘を受けた。向こう見ずな攻撃、無益な犠牲や一般に戦術の初歩に反した行動は見られなかった。敵のもっとも顕著なる特徴は射撃の組織的なこと、あらゆる武器の使用の統制にある。敵の射撃は例外なく最大の効果を発揮する瞬間まで抑制されていた・・・午後遅く抵抗を強化し、日暮れ前に反撃することにより、敵は一日のうちわが攻撃部隊の戦意と弾薬が尽きかけている時に、最も強力な銃火を浴びせて来る。壊滅的打撃を企図し、わが方が夕暮れまでに陣地を固めるのを妨げる・・・」 多くの戦死者を出した第1師団は、レイテ島から隣のセブ島へ更に転進する計画が実施されます。残存兵およそ2.000名、750人ばかりが選ばれてセブ島へ渡ります。しかし、セブ島へ渡った兵士らも、現地で敵やゲリラ兵と戦いそこで多くの命を落としました。敗戦後生きて日本の地を踏んだ兵士は、第1師団では13.000名中レイテ島からの生還者は50名でした。 オルモックを南に行くと工兵第一連隊690名(全員戦死)の「工兵碑」慰霊碑があります。 この部隊は軍用道路を作る部隊でした。脊梁山脈を越えて進撃するための道を切り開く作業や、オルモック街道を確保する作業にあたっていました。しかし後方支援部隊であるにも関わらずこの部隊は全員戦死しています。 リモン峠の北峠を下ると、野砲兵第一連隊1.900名の「砲一会 鎮魂」慰霊碑があります。 この連隊は36門の砲を持っていましたが、砲弾は不足していました。日本軍に偵察機はなく、正確な砲撃も出来ぬ戦況下で、日中は米軍偵察機に発見されぬよう偵察機のいない僅かな時間をみては砲撃し、偵察機が近づくと偽装網をかけなければなりませんでした。 「一発撃つとね、アメリカから200発くらい返って来たんですよ」と生存者の証言です。 レイテ島にあるカンギポット山(観喜峰)は、標高359m足らずの山ですが、日本軍10.000名が立てこもり全滅した山として有名です。 麓には「平和公園の碑」慰霊碑があります。 日本軍は駆逐艦による撤退作戦が実行されましたが、既に100隻あった駆逐艦は当時40隻になり全兵力の撤退は不可能な状況でした。 12月19日レイテ島の残存部隊はカンギポット山に集結し持久戦の構えとなります。 実際には組織的な日本軍の行動は終わり、補給のない中、飢餓・栄養失調・マラリア・赤痢・ゲリラからの攻撃に苦しみながら生き残りが繰り広げられることになりました。 現地のフィリピン人ゲリラは、日本兵を捕らえてはアメリカ側に引き渡しました。日本兵一人につき20ペソの償金が出ていましたが、容赦なく殺された兵士も多かったそうです。 カンキポット山一帯に残された兵士のその後の消息は殆ど不明のため「戦死の公報」の大半は、カンギポット山にて死亡として処理され、日付も昭和20年7月1日あるいは7月4日とひとまとめにされまオルモック市街の私有地に「コンクリートハウス」があります。 唯一、当時の戦火を伺い知れる建物です。 当時は周囲に塹壕もあったそうですが、現在は埋め立てられています。 リモン峠へ向う道路沿いにあることから、リモン峠の第57連隊の部隊が後方から攻撃を受けないよう、米軍の北上を食い止める為の最後の砦だったのではないか思います。 オルモックの守備隊の主力は、第26師団 独立歩兵第12連隊 第3大隊(大石大隊)約250名でした。 米軍は12月10日にオルモックに侵攻、建物に残る無数の弾痕や砲弾後は13日の砲撃によるものだと言われています。篭城してい部隊は14日に壊滅しました。 レイテ島にある慰霊碑は94ヶ所あまり 残念ながら全ての慰霊碑に手を合わせる事は出来ませんでしたが、約400Kmを3日かけて慰霊をしました。 今回は、台風の影響で、最初の慰霊地カンギポット山麓「平和公園の碑」まで悪路が行く手を塞ぎました。 山道を進む為、雨が降ると道がぬかるみなかなか思うように車が進みません。 ドライバーの腕と運に任せる… が、とうとう前にも後ろにも進まなくなってしまいました。 こういう場合、皆で降りて車を押すべきだと思うのだが、そこはまずドライバーに任せて慰霊。残りの道を徒歩で、足は泥まみれになり前進あるのみ。 兵隊さんたちも雨が降れば全身ずぶ濡れ、泥だらけになりながら行進、戦闘を行なったのだろう。 そんな思いで、日本ならば迷わず諦める道をひたすら進みました。 一時的に止んだ雨、なんとか慰霊を終えて戻ると、ドライバーは泥だらけになりながら悪戦苦闘をまだ続けていたました。 ここの泥道は水分を吸い雪道のように滑るのです。 雪の上を走ってるような感じで、エンジンをふかせばスリップしてケツを振ったワゴン車は全く手に負えません。とうとう数人の日本人も手を借し、皆で押したおかけでぬかるみから無事に脱出できました。 (見てるのはホント楽ですw) 天候もさる事ながら、慰霊の時はタイミングよく雨足が弱まり、無事慰霊を果たす事が出来ました。 未だ日本へ帰還出来ず、レイテ島に眠る日本将兵の英霊8万人に合掌

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