セブ島通信 Vol.165 2018年07月号へ戻る

慰霊祭

セブ島のマルコポーロプラザホテルの前庭には、セブ観音慰霊碑が建立されています。先の大戦においてセブ島周辺で戦死したすべての人のご冥福を祈り、ここで毎年戦没者慰霊祭が執り行われています。 小高い丘からセブ観音が見据える先にはセブ市街地からマクタン島、ボホール島が見渡せ、さらにその先には遠く日本へと続く太平洋が広がっています。 今日ではリゾートとしての華やいだイメージが強いセブ島ですが、すぐ近くにあるレイテ島周辺は先の大戦で最も激しい戦いが繰り広げられた地です。 1944年当時、日本軍はアメリカの植民地であったフィリピンを占領していました。しかし、ミッドウェー海戦での敗北以来、戦局はすでに米側に大きく傾きつつありました。 絶対国防圏(日本本土が空襲されないための絶対確保すべき要域)として定めたサイパンを中心とするマリアナ諸島を失い、日本陸海軍は米軍との最後の決戦の場を求め、フィリピン防衛を目的とする捷(しょう)一号作戦を発令しました。 フィリピンを失うと、南方から石油などの資源を本国に運べなくなります。フィリピンを守ることは、日本の死命を制する重大事だったのです。 日米が雌雄を決する場として選ばれたのは、レイテでした。フィリピン奪還を目指す米軍と、それを阻止しようとする日本軍の間で、両軍ともに国家の興亡をかけて激しく戦ったのです。 陸軍はレイテ島決戦のために新手の部隊を次々と注ぎ込み、海軍は残り少ない連合艦隊をレイテ湾に結集させ、その巨大な砲戦力で米艦隊と米地上軍の撃滅を計りました。 2つの別働隊のほか空母を中心とする小沢艦隊が囮(おとり)となって米艦隊を引きつけ、その隙(すき)を突いて戦艦大和と武蔵を擁する栗田艦隊がレイテ湾に突入する作戦が立てられました。機動部隊を囮にすることは、世界の海戦史上でも例を見ない大胆な作戦でした。 1944年10月、史上最大の海戦と呼ばれるレイテ沖海戦が始まりました。別働隊のひとつである西村艦隊が全滅、もうひとつの志摩艦隊が撤退するなか、小沢艦隊は米主力艦隊を誘い出すことに成功します。しかし、先の海戦で航空機の大半を失っており、空母4隻には13機の戦闘機しか残されていませんでした。小沢艦隊は使命を果たし全滅します。 栗田艦隊も多くの米軍艦艇や攻撃機と潜水艦からの攻撃を受け、すでに戦艦武蔵が沈められていました。多大な犠牲の上にレイテ湾突入まであと2時間と迫ったとき、栗田艦隊はレイテ湾突入をあきらめ反転します。このことは「栗田艦隊の謎の反転」として、今もって先の大戦最大の謎とされています。 ただし、レイテ湾には米艦隊が居座っていただけに、たとえ栗田艦隊が突入したとしても戦果が上がっていたかどうかはわかりません。 レイテ沖海戦で日本海軍は機動艦隊の多くを失い、大敗を喫しました。それは世界有数の強さを誇った日本連合艦隊の、事実上の壊滅を意味していました。 栗田艦隊の突入を助けるために組織されたのが神風特攻隊です。航空機の大半を失っていた日本が米航空部隊を足止めするには、もはや通常の攻撃では不可能でした。そこで、爆弾を抱いたまま米空母の甲板に突入して破壊するという非常手段がとられたのです。 それは九死一生ではなく、十死零生を意味していました。確実に死ぬとわかっていながらも進んで特攻隊に志願した多くは、まだ二十歳前後の若者でした。 レイテ沖において敷島隊6機が米空母に突っ込み沈没させる大戦果を上げたことから、以後も特攻隊の出撃が繰り返されるようになったのです。 クレージーともいわれる特攻隊ですが、祖国のすぐ近くで戦い、瀬戸際で祖国を守ることに命をかけた日本人の気持ちが、本国が戦火に包まれる心配がないほど遠く離れたアジアの果てで戦う米兵にわかるはずもありません。それだけをもってしても、どちらが侵略側であったかは火を見るより明らかと言えるでしょう。削除 セブ島基地からも、悲壮な思いを胸に大和隊が特攻隊として出撃していきました。 海戦が終わると、戦闘の舞台はレイテ島の地上戦へと移されました。レイテを天王山の戦いと見極め準備を進めていた陸軍ですが、米軍がレイテに差し向けた4個師団20万は日本側の予想をはるかに上回っていました。 それでも日本軍は多勢に無勢のなか、8万の兵をマレーの虎こと山下将軍が率い、レイテに上陸した米軍とタクロバンやドラッグ、タガミ高地やリモン峠、オルモックで激しい戦闘を繰り広げました。 日本軍にとって大きな痛手となったのは、補給がままならないことでした。マニラからレイテへと兵員と食糧・物資などを輸送する船舶は、この頃には艦艇も航空機も尽きたため護衛してくれる友軍もなく、裸同然でした。米軍の攻撃を受け、その8割は次々と海中に没していきました。 武器も食糧も途絶えた日本兵にとって、レイテはまさに地獄の戦場でした。極度の飢えとマラリアなどの熱帯特有の病気に苛まれ、もはや日本兵には戦う力が残っていませんでした。 12月下旬、米軍がさらに兵員を増強したことを受け、大本営は「自活自戦、永久抗戦」の決定を下しました。事実上のレイテ放棄です。以後は兵員も武器も食糧も送らないが、自分でどうにかして最後まで戦い抜け、という非情な命令です。 各地に孤立していた将兵は司令部が置かれていたカンギポットを目指し、後退しました。できるだけ多くの兵力をカンギポットからセブ島へ脱出させるための地号作戦を実施するためです。まずは第一師団の将兵750名ほどが3回に分かれて脱出しました。 しかし、そこまでが精一杯でした。船艇は米軍に破壊され、取り残された将兵はレイテ島の土と消えるよりなかったのです。 米軍の記録には次のように綴られています。 「4月から5月にかけて、飢えと疾病と戦いながらも、将兵たちはカンギポット峠より北へ、カルバゴス山へと山嶺の一帯をさまよい歩き、終戦の日よりあと、生きて投降収容された者なし」 レイテ島の戦いに参戦した8万弱の将兵の大半が、戦死を遂げたのです(参戦者は8万4千名戦死者は7万9千名)。戦後、先の大戦をめぐる評価は様々ですが、神風特攻隊を含めレイテに散った日本軍将兵の思いはひとつです。祖国を守るということ、それはとりもなおさず父母や家族を守ることであり、愛する人や友を守ることでした。大切な人たちを守るために、避けては通れない戦いがそこにあったのです。 セブ島に転進した第一師団の750名は、第35軍司令部と共に米軍の上陸部隊に対して最後まで激しい抵抗を続けました。 セブ島での日本の戦没者は12000人を数えます。未だにその多くの遺骨はセブ島に取り残されたままです。 2000年に遺骨収容事業が行われた際に掘り出された遺骨の多くは、まだ二十歳前後の若者でした。時代は違えども、当時の二十代と現代の二十代の思いにさほどの差はありません。戦場に散った若き英霊たちもまた、愛する人たちとのささやかな暮らしを切に願っていたに違いありません。 「国に帰りたい、父母や兄弟姉妹に会いたい、恋人にひと目逢いたい」 絶ちがたき哀切の情は、今もセブやレイテの地に漂っています。 彼らの犠牲の上に民族としての誇りが保たれ、現在の平和が築かれています。今、恵まれた時代に生きる私たちは、彼らへの感謝の思いを忘れるべきではないでしょう。 ある特攻隊員が次のような言葉を遺書に綴っています。 「父母 兄弟に告ぐ 白木の箱が届いたら、泣かずにほめてください」 戦後から73年が過ぎた今年も、セブ観音慰霊碑のもとで慰霊祭が8月15日に行われます。 文責 セブ日本人会(石田元セブ日本人会会長監修)

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