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平成30年セブ観音戦没者慰霊祭

蝶谷正明

平成最後の8月15日、セブは73年前敗戦を迎えた日本国内と同様ギラギラ太陽が照り付ける暑い一日でした。 マルコポーロプラザホテルの敷地内に立つセブ観音の御前で、今年もセブ戦没者慰霊祭を開かせていただくことが出来たことに感謝と平和のありがたさを痛感しています。 この日のために日本から強行軍で参列された方々も含め約100名が集いました。 小学生から80代、永住者、退職者、企業人、語学留学生等様々な分野の同胞が不戦と平和への思いを改めて胸に刻み込んだことと思います。 日比両国歌、1分間の黙祷、鶴岡領事事務所長追悼の辞、櫻井日本人会長挨拶(田中副会長代読)そして参列者全員がしわぶき一つない静寂の中で献花と焼香をおこないました。 真白な菊の花と日本から持参のお香が真っ青なセブの空の下で、図らずも命を落とされた比日米、国籍や兵士市民の別を問わぬ戦没者の御霊を慰めることが出来たと思います。 観音様建立の由来についてセナプロケミカル社の後藤様からご紹介をいただき、石田元日本人会会長が戦争末期のセブでの地上戦や特別攻撃隊の様子を詳細に説明されました。 高坂商工会会頭の音頭で献杯、テントだけの炎天下でしたがホテルの採算度外視、心尽くしの軽食と飲み物で参列者の懇談が続きました。 昭和19年から始まった空襲、翌20年3月の連合軍タリサイ上陸、日本軍守備隊は衆寡敵せず後退、軍の方針として玉砕が禁じられ長期持久戦に入ります。 観音様の立つ丘陵地帯に立て籠もるも兵器弾薬は言うに及ばず、命をつなぐ食料や医薬品の絶対的な不足、マラリヤやデング熱、アメーバ赤痢の蔓延により戦わずして命を落とす将兵や在留邦人が増えていきます。 戦前からの日本人コミュニティには数百人の邦人が属し、ビジネスで成功する者も少なくなかったと言われています。しかし、彼らも軍と行動を共にするしかなく営々と築き上げた財産も信用も捨て、更には掛けがえのない家族を失う悲劇が繰り広げられました。戦後、命ながらえた邦人は日本に強制送還されます。今回はその辛苦をなめられたセブ日系人会シエガ会長、オオナリ副会長のご参加もありました。 セブ全島では日本軍将兵1万余の戦病死者と伝えられていますが、フィリピン人市民やゲリラ、米軍にも多くの犠牲者があったことを我々は決して忘れてはいけないと思います。 当時の写真を見るとセブの中心であったコロンは奇跡的に残ったサントニーニョ大聖堂と税関の庁舎を除いてまさに瓦礫の山と化していました。 東京や広島の焦土と変わらぬ惨状、神風特別攻撃隊の一番機が飛び立ったラフグ飛行場(現ウオーターフロントホテルとITパーク)の蜂の巣のようにあいた爆弾の穴。 いつ終わるとも知れぬ空襲や地上戦のなかで一般市民が兵士が精神的に如何に耐え、子供や老人を守って生き抜いたのか。 第14軍陸軍野戦病院では部隊の退却に伴い、多くの歩行困難者が自ら命を絶つことを求められました。 現在の我々には想像を絶する過酷さなどと言葉で言い尽くせない世界であったと推察するしかありません。 この日、東京の武道館で行われた全国戦没者追悼式で天皇陛下は、「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」とのお言葉を述べられました。 現在のセブでの日本人の繁栄は比日米国民の多大な血と涙の上に成り立っていることを我々は改めて自覚する必要があります。 もちろん現在の我々が直接戦争に関わった訳ではありません。しかし厳然たる歴史上の事実を消し去ることは出来ませんし、それを認識することにより日本人とフィリピン人の信頼が醸成されるのではないでしょうか。 最後にセブ観音の由来について記します。1983年プラザホテル(当時)の建設に伴い、その敷地内に戦友会の手により立てられた戦没者慰霊の卒塔婆をホテルの要請により移動することになりました。1983年、岡田元少佐を長とする海軍部隊慰霊団は自らの手で慰霊碑を撤去、ホテルのご好意により無償で提供された一角にこの観音様を建立しました。ホテルはその周囲に庭園を造成し、今日に至るまで維持管理をされています。 今年の慰霊祭では観音様は色鮮やかな5000羽の千羽鶴に取り囲まれました。NGO団体のフィリピンの子供たち、補習校に通う生徒と講師、各国から集まった英語学校の学生さんたちが一つ一つ慣れない手つきで、しかし心を込めて折った鶴です。世界中がきな臭くなりつつある今日、若者たちが平和のありがたさを噛みしめて折った千羽鶴に観音様も戦没者もご満足ではないでしょうか。

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