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第8回 セブレイテ慰霊奉賛会 レイテ慰霊巡礼ツアー

セブ日本人会 安藤尚子

第8回 セブレイテ慰霊奉賛会 レイテ慰霊巡礼ツアー(10月19日〜21日)を行いました。 日本人会からの参加10名に加え、最終日はすみれ会からも10名参加いただき、19箇所を無事に慰霊する事が出来ました。 レイテ慰霊碑巡礼1日目 ・カンギポット世界平和慰霊碑 ・福山市兵第41連隊平和友好之碑 ・平和の塔 ・工兵碑 ・砲一会鎮魂 ・リモン峠第一師団戦没者英霊之碑 レイテ慰霊碑巡礼2日目 ・マッカーサー上陸記念式典 ・Hill120 ・international memorial park ・山添勲大尉 shrine ・静岡県議団 平和の碑 ・高千穂飛行大隊 終焉の木柱 ・垣兵団 平和の塔 ・垣兵団二十連隊軍旗奉焼の地 木柱 ・ダガミ 警察署裏 石碑 ・防空壕 レイテ慰霊碑巡礼3日目 ・歩兵第9連隊 鎮魂碑 ・ココマート 戦争荒廃建造物 ・岐阜県 平和之碑 今回の巡礼では不思議な出来事がありました。 1日目の工兵碑の慰霊中、頭上で黒い影が動くので見上げてみると、数羽のツバメが低空で飛んでいました。みるみるうちにその数が十数羽に増え、私達の頭上を何度も何度も円を描いて飛んでいるのです。思わず英霊らが私達を歓迎しているのだと思いました。 また、2日目のダガミ警察署敷地内にある石碑を訪れた際、地元警察官がこの近くに日本軍の洞穴があると教えてくれました。彼らの案内でその場所へ行ってみると、民家の裏庭の茂みの中に旧日本軍が作ったと思われる防空壕がありました。住民が蛇などの危険物がないかを確認してくれ、安全が確認された後、私達一行も壕に入りました。斜面はぬかるんでかなり滑りやすくなっていました。小さな入り口からかがんで中に入ると、内部は約5メートル四方ほどの空間があり、かろうじて立てる高さになっていました。入り口の反対側にはもう一つの出入り口があり、そこは草が生い茂って通行は不可能でした。この壕のあるダガミ地区は日本陸軍第16師団などがブラウエン飛行場周辺などと同様に主防衛線を展開した場所です。飛行場周辺などに陣地を築きアメリカ軍の攻撃に強固に守備しましたが、戦車や火炎放射器によりじわじわと制圧されていきました。まれに日本軍の夜襲が成功することもありましたが、ダガミの町を退いた各師団は「ブラウエン山」を守備位置に定め後退していきダガミの守備隊は壊滅しました。恐らくその時の守備に使われた壕ではないかと思われます。8回目の訪問で初めて知らされた防空壕跡ですが、この訪問も何かに導かれたものかもしれません。慰霊碑とはまた違う戦争の跡を垣間見ることが出来ました。 レイテの戦いとは… 日本軍は1944(昭和19)年7月、「絶対国防圏」であるマリアナ諸島を失いました。大本営は「捷号作戦」としてフィリピンへ進攻してきたアメリカ軍への迎撃を「捷一号作戦」とします。 1944(昭和19)年10月、アメリカ軍は西部ニューギニアより上陸部隊をフィリピンへ送り、10月20日レイテ湾に上陸を開始しました。 日本にとってフィリピンは、資源があるばかりでなく、南方のボルネオ・ジャワ・マレー半島などから運ばれてくる資源の輸送ルートに重要な場所でした。しかし当時の日本軍は、太平洋の広範囲に兵を分散しており、フィリピンに充分な兵を配置する余裕はありませんでした。 アメリカ軍は最終的には20万人以上の兵をレイテ島に送り込みました。これに対し日本軍は約9万人の兵でした。捷一号作戦では、連合艦隊がレイテ湾のアメリカ輸送船団を叩くはずでしたが、栗田艦隊は突如謎の反転をして日本本土へ引き返してしまいました。レイテ島守備隊は約3倍の兵力のアメリカ軍と海からの援護なしに戦うことになりました。12月7日、アメリカ軍は日本軍の意表をつきレイテ島司令部が置いてあったオルモックに上陸します。日本軍司令部が攻撃を受けオルモックを奪われました。日本軍は、それ以降統制のある指揮系統を取ることが出来ず、各部隊がそれぞれの判断で戦闘を続けました。12月、山下泰文大将はレイテ島の片岡中将以下約900名の将兵にセブ島へ移動することを命じ、残存部隊には「永久抗戦命令」を出しました。アメリカ軍に制空権・制海権も奪われ、補給も援軍も無い残された将兵らは、他の島へ退却する事も出来ず孤立した形となりました。脱出する術のない将兵らはレイテ島北西部のカンギポット山付近に立て籠もり、米軍に雇われたフィリピンゲリラを相手に絶望的な抵抗を続け、飢えと病の中で次々に倒れていきました。12月26日、マッカーサーがレイテの戦いの終結を宣言した時点でも、レイテ島には2万近い日本軍が残存しており、昭和20年3月時点でも1万人前後が生き残っていたと言われます。 レイテ島の戦いにおける日本軍戦死者は、レイテへ向かう輸送船ごと沈没した将兵も含めると、最大で約9万人と推定されています。レイテの戦いにおける将兵の死亡率は実に約96%(資料により誤差があり)となります。これは悲惨な戦場として知られるガダルカナル島の戦い、インパール作戦、東部ニューギニアの戦いをも上回る数字です。   行き残った佐々木大尉の証言 「食糧不足は極度にひどく、カンギポットに着いてから栄養失調、マラリア、下痢それに精神病患者が多くなりました。気が狂ってくるんですね。弾丸もありませんから、砲撃があると逃げ回るだけです。米軍は高いところから砲撃して来ますから、こっちの姿はまる見えです。木の陰、岩の下などに隠れるだけ。それしかない。人間は不思議なもので、負けいくさの兵隊は自然に固まるものだと知りました。お互いに肩と肩をすり合わせるようにして群がり、谷間のあちこち固まっているのです。そのころになるともう上官も部下もありません。人間と人間の交際になります。弾薬、食糧がなくなって、日本兵がフラフラしながら谷から谷をさ迷うようになったのは20年3月になってからです。5月、6月と日時がたつにつれて、人員の減少は目に見えてひどくなり、6月になると完全に組織力を失ってしまった、といってよいと思います。7月に入ると、連隊の隊員は何十人いたか、何人だったのか、全くつかめません。命令してどうする、というような状況ではありませんでした。上官も部下もなくなっていましたからね。」 第8回目のレイテ慰霊巡礼を終え、あらためてこうした膨大な犠牲を生んだ戦いがあったこと、父や祖父らが国や家族を守るために死んでいった事実を決して忘れてはならないと思いました。 セブレイテ慰霊奉賛会とセブ日本人会は、次世代の方々と共に先の大戦で亡くなられた先人への慰霊巡礼を今後も続けて行きたいと思っています。

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