レイテの戦いとセブ観音
セブ観音はセブ島に位置しますが、セブ島だけの慰霊にこだわることなく、ビサヤ諸島全体の慰霊を兼ねています。フィリピンの戦いにおいて最も死闘が繰り広げられたレイテ島も、ビサヤ諸島のひとつです。
今から75年前、レイテ島はまさに地獄でした。日本兵にとっても米兵にとっても、そしてレイテに暮らすフィリピン人にとっても、当時のレイテは地獄の島以外のなにものでもありませんでした。レイテの戦いに投入された日本兵は、およそ8万4000人です。そのうち生きて日本に戻れた将兵は、わずか2400人ほどに過ぎません。実に8万人以上、率にすれば97%の日本兵が、レイテ島にて土に還ったのです。
特攻が行われたのは、なにも空だけではありません。海では人間が魚雷に乗り込んで敵艦に体当たりする回天特別攻撃隊が組まれ、陸では弾薬が尽きた日本兵が銃剣を手に米軍の陣地に突撃するという斬り込み隊による特攻が繰り返されました。レイテにおいても、あまたの日本兵が斬り込み隊として戦死を遂げています。1944年後半以降、日本軍の作戦のことごとくは陸海空からの特攻がなければ成り立たない惨憺(さんたん)たる状況を呈していました。そこには数え切れないほどの悲劇の物語が織り込まれています。
世界の軍事史にも例をみない特攻が繰り返されたのは、刀折れ矢尽きた挙げ句に「最後に残された頼みの綱が精神力よりない」、といった刹那的な状況に追い込まれたからこそです。
平和な現在から振り返り、そのような状況を揶揄(やゆ)することは、正しいこととは思えません。たしかに当時と今では、価値観が大いに異なります。しかし、レイテで死んでいった日本兵たちと今の私たちといったい何が違うのかと思いを馳せるならば、決定的な違いは「時代」以外に求めることはできないように思えます。
もし、あの時代に私たちが生まれていたならば、日本兵の一人として南方の島のどこかに送られたはずです。たとえ私たちがどれだけ平和を求めたところで、兵士一人ひとりの思惑などなんの力もなく、国家の意思のままに時代に翻弄されるよりなかったことでしょう。その先に待っていたのは、突撃による死であったのか、あるいは密林の中をさまよった果ての餓死であったのか、病死であったのか、それとも自決であったのか……。
もう少し生まれる時代が早ければ、レイテ島で死んでいったのは私たち自身であったのかもしれません。そのとき、私たちは何を思って息絶えたのでしょうか。おそらくは死ぬために戦う兵士など、一人もいなかったことでしょう。誰もが家族のもとへ帰還することを願い、生きるために必死に戦ったに違いありません。
しかし、戦死・餓死・病死・自決など死に様はさまざまであったとしても、結果的に日本軍の多くは全滅して果てたのです。地獄のレイテから奇跡的に生還した日本兵の多くはセブ島に転進するも、上陸した米軍とフィリピン人ゲリラ部隊に追われ、密林のなかに多くの屍をさらしました。
レイテにおいてもセブにおいても、未だに数多くの遺骨が収容されないまま、密林に眠っています。
毎年、8月15日にセブ観音を前に響く読経の声が、彼らの魂を少しでも慰めてくれることを願うばかりです。