忘れてはいけない歴史~対日から親日へ~
太平洋戦争中、日本にとってフィリピンは防衛上の要でした。戦局は振るわず、マリアナ沖海戦の惨敗とサイパンの失陥後は、米軍の日本本土への攻撃をなんとしても止めることが、日本軍に課された使命でした。サイパンが落ちたからには、その飛行場から飛び立つ米軍機による本土空襲を防ぐ手立てが、もはやありません。米軍による本土空襲は次第に激しさを増しました。学童疎開が始まったのも、この頃です。
やむなく日本軍は、フィリピン・台湾・南西諸島から日本本土を連ねる戦に沿った地域を「絶対国防圏」と定め、ここでなんとか米軍の動きを止めようと必死に抗いました。なかでもとりわけ重要な拠点とされたのが、フィリピンです。フィリピンが米軍の手に落ちるということは、石油などの南方資源ルートが完全に断たれることを意味していました。そうなればもはや日本の敗戦は、避けようがありません。残り少ない航空機にしても艦艇にしても、石油がなければ動かすことさえできません。南方資源を確保するために、フィリピンは防衛上の最重要拠点だったのです。
そもそも日本が太平洋戦争に踏み切ったのは、南方の石油資源を確保するためでした。どれだけ大きな犠牲を払ってでもフィリピンを死守しようと、大本営は残り少ない戦力を集め、フィリピン戦線に投入しました。日本軍はフィリピンを守るための戦いに、まさに国運を賭けたのです。
しかし、このことは日本側の都合に過ぎません。フィリピンの人々からすれば、フィリピン人とはなんの関係もないにもかかわらず、自分たちの暮らす地を一方的に戦場とされたわけですから、理不尽以外のなにものでもありません。
過去にアメリカの侵略を受けた際、フィリピンは独立をかけて米軍に抗い、米比戦争を戦い抜きました。米比戦争におけるフィリピン人民間人の犠牲者数は、20万人から150万人といわれています。米比戦争に敗れ、一方的に植民地とされたことで米軍基地を抱えていたとはいえ、そのことがフィリピンにとっての罪であるはずもありません。
ただ家族と平和に暮らしていただけなのに、突如日本軍が攻めてきてはアメリカに代わって彼らを支配し、その後、米軍の上陸によって再び戦火に包まれ、フィリピン人の多くが巻き添えとなって命を落としました。多くの犠牲者を生んだことは、フィリピン人の心に日本という国家、および日本人に対する激しい憎悪を残す結果となりました。
戦時中の日本軍によるフィリピン支配が残酷なものであったことは、多くの資料が物語っています。日本軍が太平洋戦争を戦い抜くためのスローガンとなった「アジアの解放」は、フィリピンでは当てはまりませんでした。なぜなら当時、米議会の承認によってフィリピンは1946(昭和21)年の7月に独立する予定になっていたためです。
苦労してようやく独立までのカウントダウンが始まっていたにもかかわらず、頼んでもいないのに日本軍がやって来てフィリピンから米軍を追い出すと、アメリカに代わって統治を始めたのです。フィリピンにとって日本軍は招かざる客であり、まさに侵略者として受け止められました。
後年、日本はフィリピンの独立を認める戦略に切り換えましたが、日本軍政下のもとでは傀儡政権に過ぎないことは明白であり、フィリピン人の広い支持を受けることは適いませんでした。さらに、輪をかけて事態を悪化させたのは、軍政下のフィリピン占領政策が完全に失敗に終わったことです。
日本軍によるフィリピン支配は、アメリカに深く依存していたフィリピン経済に壊滅的なダメージを与えることになります。突然、アメリカから物資が一切入ってこなくなったことにより、フィリピン人の生活は大混乱に陥りました。だからといって日本には、フィリピンに物資を供給する国力などありません。物資の不足は激しいインフレを呼び込み、フィリピン人の暮らしぶりを圧迫しました。
日々の暮らしにも困り果てたセブ住民を、さらなる苦難が襲いました。日本軍による「徴発」(強制的に物を取り立てること)です。
アジアの各地に進出した日本軍の補給は、現地調達を旨としていました。セブに配置された数万の日本兵の食糧は、セブ住民からの徴発によってまかなわれていたのです。米軍とは異なり、日本内地から米などの食糧を送る余裕など、日本軍にはありませんでした。
「徴発」という言葉からは、それほど過酷な印象を受けません。されど実際は日本軍の敗色が濃くなるにつれて、その実態は略奪へと変わっていきました。徴発を任された日本兵は食糧の提供を拒む農民をときに脅し、ときに暴力をふるい、無理やり食糧を奪っていったのです。日本軍政下にあってセブ住民の暮らしぶりは貧窮を極め、家族が食いつなげるだけの食糧を確保するだけでも精一杯でした。家族が生きる糧となる、その貴重な食糧を日本兵に傍若無人に奪っていかれては、たまったものではありません。
徴発されるのは食糧ばかりではありません。民家に押し入った日本兵が衣服や金目のものを奪い取ることも、珍しくありませんでした。なんらかの労役に駆り出される徴用も、セブ住民にとっては大きな苦痛でした。徴用を拒否して殴打されることもあれば、反日思想者として憲兵に逮捕されることもありました。
「憲兵隊の門を一度くぐった者は出て来られない」という言葉は、セブの各所でささやかれました。こうしてセブ住民の憎悪の眼差しは、日本兵に集中したのです。日本兵に対する失望と怨嗟(えんさ)は、セブの若者たちにゲリラの戦士となる決意をさせるに十分でした。
フィリピン人の大半はアメリカの統治下だった頃を懐かしみ、暴虐な日本軍を忌み嫌いました。“I shall return.” の台詞を残してフィリピンを去ったマッカーサーが再び舞い戻り、米軍が日本軍を追いだしてくれることを、ひたすら願ったのです。フィリピン人にとっては、米軍こそが圧政を敷く日本からフィリピンを解き放ってくれる「解放軍」でした。
解放軍である米軍の援助のもと、日本軍への抵抗を続けるゲリラ部隊に身を投じることは、フィリピン人にとっての正義でした。日本軍の圧政が強くなるほど、ゲリラ部隊に加入する若者は増え、日本軍を苦しめました。ゲリラは日本の占領政策を妨害するために、日本軍の徴発や徴用に応じた同胞を、対日協力者と見なして射殺しました。
セブの住民はゲリラの報復を恐れ、日本兵による徴発や徴用を避けるために、日本兵が近づくだけで逃げるようになりました。すると日本兵は、自分たちの姿を見て逃げ出すフィリピン人をゲリラの一味と見なし、容赦なく射殺しました。ゲリラ兵と日本兵の双方から射殺される恐怖に、セブの住民は脅えました。
日本軍政下の過酷な圧政と日本軍によって甚大な犠牲(実際には米軍の空爆などによる犠牲者も多くいた)が生じたことは、戦後まもなくの頃におけるフィリピン人の対日感情を、憎悪で満たしたのです。
憎悪から友愛へ
戦後にフィリピンで行われたBC級戦犯裁判の結果を見ても、フィリピン人の怒りがどれほど深かったのかを感じ取れます。訴追された151人のうち、実に9割以上に当たる137人が有罪となり、そのうちの6割に当たる79人に死刑が宣告されました。
戦後、日本の植民地から独立した国で対日戦犯裁判を行ったのは、フィリピンだけです。その事実だけを見ても、他の東南アジア諸国とは異なり、フィリピン人の対日憎悪には相当根深いものがあったことがわかります。しかし、戦後の日本とフィリピンの関係を追いかけてみると、フィリピン人の対日感情が憎しみから赦しへと次第に転換していったことが見てとれます。
その契機となったのは、1953(昭和28)年7月にフィリピンのエルピディオ・キリノ大統領が、死刑囚56名を含む日本人戦犯105名全員の恩赦を行ったことです。モンテンルパ刑務所に服役していた105名は全員、日本への帰還を果たしました。ちなみに、戦後の混乱期に行われた戦犯裁判には問題も多く、冤罪で死刑判決を受けた日本兵も多く含まれていました。無実の死刑囚を救おうとする運動が日本本土で起き、戦犯の悲哀を歌った『あゝモンテンルパの夜は更けて』がヒットしています。
キリノ大統領がフィリピン国内から寄せられる猛烈な批判を覚悟してまでも、「赦し」を与える決断をするきっかけとなったのは、この哀切を帯びた『あゝモンテンルパの夜は更けて』を聴いたからと伝えられています。実はキリノ大統領自身、まだ幼かった子供3人と妻をマニラ市街戦の折に日本軍に殺害された過去を背負っていました。個人的な憎悪を乗り越え、恩赦によって戦犯全員を日本に帰したことは、日本国民に大きな感動を与えました。キリノ大統領の英断は、憎悪一辺倒だったフィリピン人の対日感情を「赦し」という大河へ導く初めの一滴となったのです。
今日のフィリピンは間違いなく親日国家です。セブにおいて日本人とわかるだけで、多くのフィリピン人の歓待を受けることも珍しくありません。このような状況を、戦後まもなくの反日感情にあふれたフィリピンから想像することは、とてもできません。戦時中に日比両国の間に横たわっていた憎悪は、およそ70年余の時を経て友愛へと切り替わりました。
戦時の怒りを現在の友愛へと変えたのは、キリノ大統領に端を発する「許し」の精神であったことを、私たちは忘れるべきではないでしょう。
「許し難きを許す」という英断こそが、戦時と今を結ぶ架け橋となったのです。日本とフィリピンの関係が、憎悪から友愛へと切り替わったシンボルとして建立されたのが「セブ観音」です。
セブ観音は、レイテを含むセブ周辺の戦いで散華した日本兵と、軍とは関係なく戦禍の巻き添えとなって命を落とした日本の民間人の慰霊とともに、日本兵と戦って死んでいったフィリピン人兵士、そして犠牲となった多くのフィリピン人居住者の御魂を慰めるために建立されました。そのため、毎年8月15日にセブ日本人会が主催して開かれる慰霊祭には、日本とフィリピン両国の戦没者の遺族が多数、集います。また最近では、アメリカ人の参加も目立つようになりました。各種ボランティア団体の協力も受け、当時の記憶を風化させないための取り組みが行われています。
セブ観音像こそが「平和のシンボル」であると、セブ日本人会では捉えています。
現在も運営を続けているホテルの一角に、セブ観音の建立を許していただけたマルコポーロホテルのオーナー夫妻に対しては、深く感謝しております。当時は日本兵の慰霊などとんでもないとする空気が強く、設置場所を探すだけでも大変でした。そんななか、助け船をだしていただけたマルコポーロホテルについては、感謝の意に堪えません。しかも、いつ訪れてもよいように銅像や敷地の手入れまで行っていただき、その厚情に関しても深く感謝致します。
多くの方々の支援を受けながらセブ観音像が建立され、今